はじめに
前回のブログに『老い』もまたグリーフ(喪失体験による深い悲しみ)だと考えている事を書きました。
【高齢者の心理】という講義をさせていただいた時に、改めて老いていく中の喪失の多さを考えるきっかけとなったから
深い悲しみにある人を癒す・・
そこに、何か良い励ましの言葉を言う必要はないように私は思います
向き合う相手を感じ、心の声に耳を傾ける『聴く』ことこそが一番大切なんじゃないかな(*^-^*)
それを少し感じてもらいたくて、ある詩をご紹介したいと思います
【高齢者の心理】の講義で資料としてお伝えしているのですが
感じるままに
読んでみてください????. . .
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イギリス・ヨークシャーのアシュルディー病院の病棟で一人の老婦人が亡くなりました。彼女の持ち物を整理していた看護師さんが、この詩を見つけました。
彼女は重い認知症でした
『わたしを見て』
何が見えるの、看護婦さん、あなたには何が見えるの
あなたが私を見る時、こう思っているのでしょう
気むずかしいおばあさん、利口じゃないし、日常生活もおぼつかなく
目をうつろにさまよわせて
食べ物はぽろぽろこぼし、返事もしない
あなたが大声で「お願いだからやってみて」といっても
あなたのしていることに気付かないようで
いつもいつも靴下や靴をなくしてばかりいる
おもしろいのかおもしろくないのか
あなたの言いなりになっている
長い一日を埋めるためにお風呂を使ったり食事をしたり
これがあなたが考えていること、あなたが見ているものではありませんか
でも目を開けてごらんなさい、看護婦さん、あなたは私を見てはいないのですよ
私が誰なのか教えてあげましょう,ここにじっと座っているこの私が
あなたの命ずるままに起き上がるこの私が、
あなたの意志で食べているこの私が、誰なのか,
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わたしは十歳の子供でした。父がいて、母がいて
きょうだいがいて,皆お互いに愛し合っていました
十六歳の少女は足に翼をつけて
もうすぐ恋人に会えることを夢見ていました
二十歳でもう花嫁。守ると約束した誓いを胸にきざんで
私の心は躍っていました
二十五歳で私は子供を生みました
その子たちには安全で幸福な家庭が必要でした
三十歳、子供はみるみる大きくなる
永遠に続くはずのきずなで母子はお互いに結ばれて
四十歳、息子たちは成長し、行ってしまった
でも夫はそばにいて、私が悲しまないように見守ってくれました
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五十歳、もう一度赤ん坊が膝の上で遊びました
愛する夫と私は再び子供に会ったのです
暗い日々が訪れました。 夫が死んだのです
先のことを考え――不安で震えました
息子たちは皆自分の子供を育てている最中でしたから
それで私は、過ごしてきた年月と愛のことを考えました
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いま私はおばあさんになりました。自然の女神は残酷です
老人をまるでばかのように見せるのは、自然の女神の悪い冗談
体はぼろぼろ、優雅さも気力も失せ、
かって心があったところには今では石ころがあるだけ
でもこの古ぼけた肉体の残骸にはまだ少女が住んでいて
何度も何度も私の使い古しの心は膨らむ
喜びを思い出し、苦しみを思い出す
そして人生をもう一度愛して生き直す
年月はあまりに短すぎ,あまりに遠く過ぎてしまったと私は思うの
そして何ものも永遠ではないという厳しい現実を受け入れるのです
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だから目を開けてよ、看護婦さん――目を開けてみてください
気むずかしいおばあさんではなくて、「私」をもっとよくみて!
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パット・ムーア著 「変装 私は三年間老人だった」(1988初版)より転載
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どうでしたか?高齢者(認知症の方)の心を理解する資料として使用していますが、高齢者や認知症だけで捉えずに、この詩から広く何かを感じてもらえたら幸いです(*^_^*). .
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